EcoPARIは水環境の高精度なシミュレーションが可能
── 港湾空港技術研究所で開発している「流動生態系シミュレーションシステム(EcoPARI)」とは、どのようなものですか。
井上:EcoPARIは、東京湾や伊勢湾、大阪湾など内湾の水環境を高精度にシミュレーションできる統合システムです図1。
日本の大都市は内湾に面していることが多く、内湾には大量の雑排水が流れ込みます。また、内湾は陸に囲まれ入り口が狭いので、外海との海水の交換があまり行われません。そのため、内湾の水環境は悪化しやすいという特徴があります。
港湾空港技術研究所では内湾を対象に、船を使った観測や、海水や底泥の採取・分析を行っています。ただし定期的に観測できるのは、多くても週1回、東京湾の場合で10カ所程度です。水環境は、時々刻々と変化しています。また、水平方向では湾の入り口と奥で水環境はまったく違い、垂直方向ではわずか数メートルでも大きく変わります。内湾の水環境は空間的な変動が激しいのです。そのため、観測だけで内湾の水環境を把握しようとしても限界があります。そこで、シミュレーションが重要なツールになっています。
EcoPARIは、水温や塩分、流向・流速、酸素や植物プランクトンの濃度など水環境の主要な項目をシミュレーションで再現できます。これにより、時空間的に散在する観測値を補完し、観測されていない時間や場所の水環境も知ることができるのです。
EcoPARIは、例えば浅場を造成したら水環境がどのように変化するかを予測することもできます。水環境の改善に有効な方法の検討や、開発行為が水環境に与える影響の評価においても、重要なツールになります。
松崎:EcoPARIは、2007年に策定された「伊勢湾再生行動計画」のもと、国土交通省中部地方整備局の委託研究として開発された「伊勢湾シミュレータ」を核としています。その後、東京湾や大阪湾、湖沼にも適用され、信頼性が高いと評価いただいています。モデルを計算してシミュレーションするだけでなく、計算条件を設定するプリ処理から計算結果の解析や可視化を行うポスト処理まで、一貫して行うことができる点も、EcoPARIの特徴です。
図1 流動生態系シミュレーションシステム(EcoPARI)によって検討可能な現象の例
始まりはJHPCN研究課題募集のポスター
── mdxを利用した経緯を教えていただけますか。
松崎:EcoPARIは、国土交通省や自治体の職員、建設コンサルタント、大学や研究機関の研究者などに幅広く利用されることを目指して開発してきました。しかし高性能であるが故に、その計算量は膨大で、処理が複雑です。EcoPARIを使うにはスパコンと高度な技術が必要で、そのハードルの高さから利用者は限られていました。
多くの人に使ってもらうには、外部のスパコンにアクセスしてEcoPARIを利用できる環境を用意する必要があります。専門的な技術や知識を持たない人でも使えるように、ウェブブラウザでクリックしていくだけでシミュレーションが可能なGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)の導入も欠かせません。
そうしたプラットフォームを構築するにはどうしたらよいだろうかと井上さんと議論していた際、偶然、学際大規模情報基盤共同利用・共同研究拠点(JHPCN)
※1
の研究課題募集のポスターを目にしました。実は、そのとき初めてmdxの存在を知ったのです。JHPCNの説明会に参加したところ、JHPCNの共同研究に課題が採択された場合に利用可能となるスパコンやmdxについて、担当者がとても熱心かつ丁寧に説明してくださいました。それを聞いて、mdxを使ってみたいと思ったのです。
そして2023年度のJHPCN共同研究課題公募に「水環境総合評価システムによる水環境評価のための標準化プラットフォーム構築」というテーマで応募し、採択されました。現在、3年計画でこのプロジェクトに取り組んでいます。
私たちが目指しているのはスパコンを所有していなくても専門的な技術や知識を持たない人でも使える水環境のシミュレーションシステムです。
── 松崎義孝 氏
経験とセンスに依存していたパラメータ調整をmdxで革新する
── 研究プロジェクトでは、どのようなことを目指しているのですか。
松崎:EcoPARIの高速化、パラメータ調整システムの構築、海の天気予報の実現という3つの目標を掲げています。
高速化は、大阪大学 D3センターが所有するスパコンSQUIDにEcoPARIを実装することで実現しようとしています。パラメータ調整システムと海の天気予報は、mdxをメインのシステムとして、SQUIDや東京大学情報基盤センターのスパコンWisteriaと連携します。
── パラメータ調整システムとは、どういうものですか。
井上:水環境をシミュレーションするには、設定しなければいけない値、パラメータがたくさんあります。設定を誤ると、水環境を正確に再現することができません。パラメータの設定は、熟練したエンジニアが経験とセンスを頼りに手作業で行っています。この状況を変えるために開発されたのが、パラメータ調整システムです。
具体的には、まずmdxがさまざまなパラメータで計算を行うようSQUIDに命令します。SQUIDは大量の計算を実行し、結果をmdxに送ります。mdxは、それぞれの結果を観測値などと比較して、どのパラメータが現実の水環境をよく再現しているか判定します。このプロセスを繰り返して最適なパラメータをmdxが選び出します。これは遺伝的アルゴリズムという手法で、たくさんの計算を繰り返し行う必要があります。mdxが指揮を執り、SQUIDが計算作業を担うという構成にすることで、実現しました。
パラメータ調整システムは、シミュレーションの効率化だけでなく、結果の信頼性向上にも役立ちます。従来の方法ではパラメータの選定理由を明確に説明することが難しく、環境影響評価で「影響はない」と示されても、その選定過程がブラックボックス化しているため、納得していただくのが難しい場合があります。パラメータ調整システムを使えば、誰が操作しても同じパラメータとなり、その選定過程も明確です。ブラックボックスがなくなることで、結果への信頼性が高まり、納得を得られやすくなるでしょう。
伊勢湾の11日後までの「海の天気予報」をmdxから発信
── 海の天気予報とは、どういうものですか。
松崎:海の天気予報は伊勢湾の水環境を11日後まで予測して表示するシステムで、正式名称を「伊勢湾海域環境予測システム」といいます図2。気象業務支援センターが提供する詳細な気象情報や、海流や海面水温のデータを、港湾空港技術研究所のサーバーで受け取り、それをmdxに送ります。mdxは、そのデータを使って11日後までの伊勢湾の水環境をEcoPARIで計算するようWisteriaに命令します。計算結果をmdxが受け取り、図を作成します。
試験運用中ですが、海の天気予報のURLにアクセスすると、海水温、塩分、クロロフィル濃度と溶存酸素濃度の情報をご覧いただけます。中部地方整備局がリアルタイムで観測している値も表示され、予測と比較できます。海の天気予報として発信されているものはいくつかありますが、内湾に特化しているのは私たちだけではないでしょうか。河川の影響も入れているため、予測精度が高くなっています。
図2 海の天気予報(伊勢湾海域環境予測システム)の概要
── 海の天気予報の本格運用に向けて、どのような検討をされていますか。
松崎:mdxの優れた高速計算能力を活用し、港湾空港技術研究所のサーバーからデータを受け取り、計算から画面表示までを全てmdxで完結できるようにしたいと考えています。また、天気予報の予測精度を向上させるために用いられる「データ同化」という手法を、海の天気予報にも取り入れる準備を進めています。さらに、東京湾や大阪湾を対象とした海の天気予報の実現を目指しています。
クリックしていくだけでシミュレーションが可能に
── 今後、mdxをどのように活用していきたいとお考えですか。
松崎:ウェブブラウザ上で期間や海域などの計算条件をクリックで選択し、計算実行ボタンを押すだけで計算結果が表示される。さらに、計算結果を解析するツールを選んで実行したり、表示形式を選んで結果を可視化できる図3。こうしたプラットフォームをmdxで実現したいと考えています。
図3 ウェブブラウザ上で計算条件を設定する「EcoPARI-Web GUI Pre」と、計算結果を可視化する「EcoPARI-Web GUI Post」
井上:このようなシステムが実現すれば、これまで観測が中心だった研究者もシミュレーションができるようになり、研究の幅が大きく広がります。また、多くの人に使ってもらうことで、水環境やシミュレーションに対する理解が深まり、水環境の保全や再生についての議論がより活発になるでしょう。
表計算ソフトの登場によって誰でも統計解析ができるようになりました。同じように簡単な操作で水環境のシミュレーションができるようになれば研究のやり方も大きく変わるでしょう。
── 井上徹教 氏
── 最後に、mdxを利用した感想をお聞かせください。
松崎:民間にもmdxと同様のサービスがありますが、私たちはコンピュータの専門家ではないので、公表されている情報だけでmdxと民間のサービスを詳細に比較して選択することはできません。だから、まずは少し試してみたいのです。しかし、国土交通省所管の研究所に属する私たちが民間のサービスを利用する際には、煩雑な手続きが必要で時間がかかるため、ハードルが高いです。一方mdxは、簡単に試験利用ができるので、ちょっと試してみたいという私たちのニーズにマッチしていました。
またmdxは、計算資源やストレージ資源を柔軟に変更できるのがいいですね。しかも申請してから承認されるまでのスピードが非常に速く、迅速に対応していただけるおかげで、滞りなく作業を進めることができています。
この研究プロジェクトは、環境分野の技術開発を得意とする建設コンサルタント、高速化を得意とする大学・ソフトウェア開発会社など10以上の組織と共同で進めています。そのメンバーがどこからでもアクセスできるというのも、mdxの大きなメリットです。
取材・構成:鈴木志乃/フォトンクリエイト
撮影:石渡菜々子/STUDIO CAC